Sophists' Almanac

世界について知りたいとき

War and Peace ② 京都大学の学徒出陣 - 特攻艇・震洋とは? 立命館大学副学長、岩井忠熊教授の場合。

今日、特攻隊についてネット検索したら、

とんでもない空想ロマンばかりでびっくりした。

 

ネットばかりで歴史を学ぶと、

とんでもないエコーチェンバーの幻想奈落にはまるので

要注意です。

 

歴史を学ぶ原点は

身近な当事者からお話を聞く (oral history) のが大切。

 

京都大学では、4500人の学生が入隊し、

そのうちの264人が戦没者として確認されています。

 

(実は学徒出陣していった学生たちの記録は、公式なものとしては存在していません。各地域で保存されていた記録も、戦後すぐに焼却されたりしたのです。ですから各大学で個別に調査するしかない現状です。)

 

今日は、熊本県出身で京都大学を卒業し、立命館大学の近代史の教授で副学長を務めた岩井忠熊教授のお話をご紹介したいと思います。

 

 

岩井教授が京都大学の学生だった頃、学徒出陣で特攻隊員となります。

 

しかし、そのことを世に明らかにしたのは晩年になってから。その理由は「特攻を公然と賛美する動きに腹が立った」とのことでした。(戦後65年 特攻を語る )

 

岩井忠熊・立命館大学名誉教授講演 立命館土曜講座「学徒出陣—わだつみ世代の伝言 出陣学徒70年目の証言」

 

 岩井教授は、15年戦争の性格を「日本本土を攻めて来た国は一カ国もなかった。一貫した侵略性が特徴である」と解説。絶対国防圏防衛のため、国民あげて総動員されていくなかで、戦争が拡大していった状況、外交上、戦略上も当時の軍部の見通しの甘さが悲惨な戦争を招いた点にも言及した。現状を的確にとらえた情報を入手できていたにも関わらず、それを活かすことができなかった軍部の組織としての欠点についても指摘。また、特殊な技能を持った人材が戦死していく中で、高等教育を受けた学徒の動員に踏み切らざるを得なかった程、窮地に追い込まれていった当時の戦況についても語った。敗戦が必至の戦局のなかで、多くの若人が学業半ばで戦地に赴き、学徒兵の総数は10万人以上と推定され、特攻の戦死者も多かった。・・・

 

日本が行っていた特攻隊は、爆弾や爆薬を搭載した Kamikaze のようなゼロ戦ばかりではないのです。

 

a. 軍用機 (飛行機)

b. 高速艇 (船)

c. 潜水艇 (人間魚雷)

d. 爆弾をもって体当たり自爆

 

このような自爆戦略を担った兵士のことを意味します。

 

今日は ( b ) の特攻艇震洋を学びたいと思います。

 

Wikipedia の該当項目は特攻隊称賛の人物が書き替えているのであまり参考になりません。

 

 イメージ 1

 

[証言記録 兵士たちの戦争]“ベニヤボート”の特攻兵器 ~震洋特別攻撃隊

 

平洋戦争末期、敗色濃厚となった戦局を、一挙にばん回するために開発された秘密兵器、長さ5メートルほどのモーターボート。太平洋を震撼させるという意味で、震洋と名づけられた。


船首に250キロの爆薬を搭載し、敵艦に体当たり攻撃をする特攻兵器である。船体を軽くし、量産を可能にするために、ベニヤ板で造られていた。搭乗員として集められたのは、予科練を卒業したばかりの若者たち。戦闘機乗りを志していた彼らを、ベニヤのモーターボートが待っていたのである。

終戦までに震洋の体当たり攻撃で沈んだ連合軍の艦船は、アメリカ側の資料によれば4隻。その一方、命を失った震洋隊員は、基地隊員も含め、2500人にも上る。爆発事故や空襲などで、多くの若者たちが敵艦に突入することなく命を落としていった。

 

イメージ 2

 

なんと、2500人の若者たちが、この薄いべニア板でつくられたモーターボートにのって敵艦につっこんでいったが、それで爆破できた連合軍の艦船はたったの四隻・・・。

 

成功率は単純計算で

4/2500 つまり・・・

625人に1人の成功率だったのです。

 

与那原には海上特攻隊震洋)があり、山からレールで海岸へ降ろして、海上を船舶目掛けて特攻するのを、我々は山から見ていましたが、ローソクが燃えるようにくるくる回り、やられてスーツと海中に消えて行く。・・・

《「軍人軍属短期在職者が語り継ぐ労苦(兵士編)第6巻・重砲兵第七連隊 沖縄戦で生き残れた私」(平和祈念展示資料館http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/06onketsu/O_06_403_1.pdf ) より

 

すさまじく粗悪な欠陥計画が、

 

「大学生のようなエリートまでもが国のために命をかけるのだ」といった感情的な美談とともに奨励され、

 

だれもそれを止めようとはしませんでした。 

 

特攻艇・震洋の元特攻隊員の生存者である、岩井忠熊・立命館大学名誉教授が、そのときの経験を立命館の学生たちに語ります。

 

youtu.be

 

Oral History: 岩井教授のお話を聞いてみよう 

 

 

 

 

【写真①】昭和18年6月/京都大学進学した頃
【写真②】昭和19年7月/横須賀にて

 
 

【写真③】昭和20年頃/海軍少尉として特攻隊を率いていた頃
【写真④】昭和19年頃/同じく特攻隊に配属された兄 (右) と

 

 

みんなの戦争証言アーカイブ

兄弟で特攻ってわかった時は笑うしかなかったですね。来るべきとこまできたなと…

 

岩井忠熊さんは、昭和18年 京都帝都大学文学部に進学してまもなく、

徴兵猶予停止により学徒出陣で海軍へ配属され、

海兵団、航海学校と進み、卒業後 海軍少尉に任官。

 

爆薬を積んだモーターボートで敵船へ体当たりする、
特攻兵器「震洋」の艇隊長に任命される。


昭和20年3月23日。
石垣島へ配属されるために乗り込んだ輸送船が、
アメリカ軍潜水艦の魚雷攻撃を受け沈没。
  
岩井さんは、3時間の漂流の後、救出される。
再び特攻兵器「震洋」の艇隊長に任命され出撃命令を待つも、
そのまま終戦を迎える。
   
というのが、太平洋戦争が始まってからの、
岩井さんの、とてもざっくりとしたプロフィールだが、
   
幼少時代のお話からとても興味深いのだ。
  
岩井さんが、幼いころ、
元陸軍少将だった父親が退役を期に
中華民国における日本の租借地・関東州大連に移住することを決意。
  
父親自身が、日露戦争に出征していたころから馴染みがある土地で、

日本に移譲されるまではロシアが街作りを進めていたこと、
大陸ゆえに欧州文化が日本より早く伝わっていたことなどから
「日本本土よりも先進的な暮らしができる」と、
その地を選んだという。

そして、移住後。
満州事変、満州国建国と関東軍勢力を広げ、
事実上、日本が植民地政策をとっていく激動の歴史を目の当たりにし

岩井少年は過ごしてきたのだ。
  
満州事変から終戦まで、
日本が辿った歴史が見えてくるようなお話。
とてもおもしろいので、是非、ご覧いただきたい。

 

 

最後に・・・
 
岩井教授から学生たちへのメッセージです。
 
私自身も戦争を横からただ眺めているだけの普通の学生だった。
 
時勢は流動的で、いつも歴史は動いている。
 
そういうものに常に敏感になって、特に戦争に関しては若い人も反対の意志をはっきりと表明してほしい。
 
私は若い人たちに対して希望を持ち続けている。