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ルードヴィヒ2世は「狂王」ではなかった?

 彼の「狂気」を証明した鑑定書に署名したグッデン、ハーゲン、グラースハイ、フーピリヒの4人の医師は、グッデンを除いてルードヴィヒ2世に会ったこともなかった。唯一、面識のあったグッデンにしても、それは12年前のことであり、4人の誰ひとりとして、ルードヴィヒ2世を診察していなかったのだ。

 鑑定書はグッデンによって一夜で書き上げられ、その資料となったのはルードヴィヒ2世の不興を被った者や、新政権側の人間の証言だった。当然のことながら、虚偽や誇張の証言もあろう。証言のなかには「食事の際に、食べ物で服を汚す」といったものまで存在した。

 反対に、ルードヴィヒ2世に近しい人々で、彼に恨みがない者は、彼の精神の病を否定していたという。(関楠生著『狂王伝説 ルードヴィヒ二世』)

 ルードヴィヒ2世は「狂王」ではなかったのだろうか。

 

ルードヴィヒ2世の永遠の謎

 ルードヴィヒ2世が、謎の死を遂げたことはよく知られているが、その死の何が「謎」だったのだろうか。

 まず、その死を時系列で追ってみよう。

 1886年6月8日、ルードヴィヒ2世はグッデンらから狂気が証明されると、6月12日にノイシュヴァンシュタイン城で捕らえられた。その後、シュタルンベルク湖畔のベルク城に収容されてしまう。

 翌日(6月13日)の夕刻、ルートヴィヒ2世はグッデンと一緒に散歩に出た。グッデンは「8時には帰る」と言い残していたが、8時を過ぎても2人が戻ってくることはなかった。

 臣下たちが警官とともに探したところ、夜の10時頃、シュタルンベルク湖の浅瀬で、ルードヴィヒ2世のマントや2人の傘などが見つかり、ほどなく2人の遺体も発見された。

 ルードヴィヒ2世の遺体は無傷であったが、グッデンの顔には引っかき傷や、殴られたような青あざが残っていた。ゆえに2人の死は、「ノイシュヴァンシュタイン城と王座を追われ、失意に陥ったルートヴィヒ2世は、彼の自殺を阻止しようとするグッデンをもみ合いのすえに殺害し、その後に自殺を図った」という見方が浸透している。

 しかし、ルートヴィヒ2世は水泳の達人であり、そんな彼が浅瀬で自殺を図るのか。また、人が死ぬほどの格闘が行われたなら、ルートヴィヒ2世だけが無傷というのは、些か不自然ではないかと、指摘する声もある。

 当時の時計は防水機能がないため、水に浸かると長くは動かないのだが、ルートヴィヒ2世の時計は6時45分で、グッデンの時計は8時で止まっていた。グッデンは、時計のねじを巻き忘れる癖があったとされているが、時計の停止時間だけで判断するなら、ルートヴィヒ2世のほうが、先に亡くなったようにも思える。

 もう一つ不可解なのは、なぜか、グッデンのポケットに、約200マルクが入っていたことである。200マルクは、当時の平均労働者の4年分の収入に相当するという。なぜ、グッデンがそんな大金を、散歩に持ち歩いていたのかは、わかっていない。(シュミット村木眞寿美著『ルードヴィヒ二世の生涯』)

 この自殺説の他にも、湖を泳いで逃げようとし、その際に心臓発作を起こしたという病死説や、何者かに銃撃されたという他殺説など、ルートヴィヒ2世の死因に関しては様々な説が囁かれ、真相は謎のままである。

 なんとか真実を知りたいものだが、ルートヴィヒ2世は、女優マリー・ダーン・ハウスマン(1829~1909)への手紙のなかで、「私は、自分自身や他の人にとって、永遠の謎であり続けたい」と綴っている。それが彼の願いならば、彼は、その死の謎が解き明かされることなど、望んでいないのかもしれない。

 ルードヴィヒ2世の遺体発見現場であるシュタルンベルク湖の浅瀬には、十字架が彼の「永遠の謎」を封じるように、立てられている。

謎多き名城、ノイシュヴァンシュタイン城の真実 世界の美しい城(第8回) | JBpress autograph

 

 

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