Sophist Almanac

世界について知りたいとき

War and Peace ③ 学徒出陣 - 特攻隊振武寮 - 大学のキャンパスから特攻隊へ、そして生き残って振武寮に幽閉された青年たちの記録。

みんなは大貫妙子さんって歌手しってる?

きれいな歌声なので、

よく CM にも使われていたし、

いつまでたってもきれいな人だな~。

 

 

で、この大貫さんのお父さまは、

実は特攻隊の生き残りの人なんです。

 

大学生は優秀で従順な即戦力として軍に送られ、特攻にもおおく送られて行きました。

 

特攻隊というと、

 

たとえばいろんな映画や本やサイトで

いろいろと勇壮な英雄たちの悲劇の物語として語られるけど、本当はどうだったのだろう。。。。

 

特攻は非人道的で、自爆テロ (suicide bombing) と変わりないという批判に対して、いや、特攻は日本の「美学」だとまでいいだす人々も増えてきています。

  

特攻は美しいのか ?

 

富裕層右翼として有名な高須クリニック高須克弥医院長 (72) が先日ツイッターでこのようなツイートをしました。

 

  

ここで確認ですが、

この手の「情報のすり替え」には注意しましょう。

 

憲法前文に記されているのは、ご存じのとおり、「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ」

 

非戦と平和主義、国民主権人道主義で名誉ある地位を占めたいと書かれているのであって、「特攻」と「玉砕」で世界から尊敬されたいなどと憲法に書かれているわけはありません。

 

読書家で知られる、高須克弥氏のご子息で、高須クリニックの副委員長の高須力弥さんは、父のツイートにこう返信しています。

 

   

右とか左とか、もう、どうでもいいから、

 

私たちがまずファクトとして知っておくべきなのは、徴兵とか特攻とか「玉砕」とか「自決」とかの実相とはどんなものだったのか、ということです。

 

特攻とはなに !?

 

特攻隊とは、『特別攻撃隊』のこと。

 

特別攻撃隊 (特攻隊) 

a. 軍用機 (飛行機) ⇦ 今日扱うのはこれ。

b. 高速艇 (ボート) ⇦ 震洋

c. 潜水艇 (人間魚雷) ⇦ 回天

d. 水中特攻  ⇦ 伏龍

e. 人間ロケット ⇦ 桜花

f. 斬り込み隊 ⇦ 爆弾をもって体当たり自爆

 

兵士が枯渇し、短期間で技術を習得させるために、特攻隊のおおくに大学生 (学徒兵) が充てられたのです。

 

特攻隊振武寮 ─ 証言:帰還兵は地獄を見た

 

今日は、特攻隊大貫妙子さんの父、大貫健一郎さんの本を紹介します。

 

これ、等身大の若者の姿がいきいきと描かれていて、すごく読みやすく、ぐんぐんとお話 (oral history) にひきこまれていきます。

 

軍隊のなかの抑圧構造は、現在の会社の過労死問題や学校のいじめの構造と同じ感じだっていうのがわかるし、めちゃ、お薦めです。

 

      

 

▶ 特攻隊振武寮 ─ 証言:帰還兵は地獄を見た

2009/7/10  大貫 健一郎 (著)  渡辺 考  (著)

 

「父は特攻隊が美化されることを、常に危惧していました」
(大貫少尉の長女・大貫妙子さんミュージシャン)


■ 序章「幽閉された軍神」より

 

私たち生き残った二八名の特攻隊員は、第六航空軍司令部に隣接する私立福岡女学校の寄宿舎に連れていかれました。寄宿舎の周囲には鉄条網が張り巡らされ、銃を持った衛兵が入口に立っていて、ものものしい雰囲気です。

 

 

大貫健一
1921年福岡県生まれ。台湾で育ち、基隆中学を経て、拓殖大学卒。1942年10月陸軍小倉歩兵第14連隊入隊。43年6月特別操縦見習士官制度に志願合格し、10月大刀洗陸軍飛行学校本校に入校。44年8月明野教導飛行師団入隊。陸軍特攻隊「第22振武隊」の一員に選ばれる。45年4月鹿児島県知覧飛行場から特攻機で沖縄に向かうも、徳之島に不時着。その後福岡市に移送され、生き残り特攻隊員の収容施設である「振武寮」に軟禁された。三重県菰野陸軍飛行基地で、本土防衛特攻隊員として終戦を迎える

 

またドキュメンタリーも放映されました。

これも必見です。

 

 

特攻機で沖縄に向かうも、驚くべき数の機体が機器の不良などで不時着。生きて帰ってきた特攻隊員も多くいた。なにせ、日本は深く実践性を考えることなく、漠然とした精神論で戦争すら突き進むのです。

 

  

生きて帰ってきた「英霊」たちは、国家にとって不都合な存在。

 

彼らは振武寮に閉じ込められ、徹底的に苛め抜かれ、再び特攻隊となって「英霊」「護国の神」として死ぬことを強いられる。

 

そんな極限に追いつめられていく若者たちが、精神的につぶされなかったのは、自分たちが大学で学んできた学問のおかげだったのかもしれない。

 

そうなってくると、ますます見えてくる軍隊内部の矛盾、腐りきった日本の軍の実態。それが見えてくる。

 

みずからは何もしない粗暴な軍人に、「死ね」といわれたくない !

 

こんな意地が彼らのなかに少しづつ芽生えてきます。

  

一方で、生き残った学生たちにもう一度、特攻隊として死ぬように叩きこむ側にあった倉澤参謀は、学徒兵のことをこう語っています。

 

生き残った学徒兵に対し、また死を再び覚悟させることは予想以上に困難なことでした。倉澤参謀 (当時28才) は、ただひたすら国のために死ね、といいつづけます。

 

倉澤元参謀談『年齢を若くして参謀なんかになって、特攻隊にならないで、われわれ素人を特攻隊用に大学から引っぱってきて、話が、筋が違う、という態度が、露骨には言わないけれど (かれら学徒兵の中に) 消えなかった。

 

『だからね、これは悪口ではないですよ、法律とかね、政治を知っちゃって、ま、今の言葉で言えば、人のいのちは月より重いなんて知っちゃうとね、死ぬのが怖くなるんですよ。

 

『それをその、世間常識のないうちからね、徹底的にマインドコントロール、洗脳すればね、自然にそういう人間になっちゃうんですよ。』 

 

終戦後、多くの学生を特攻に送りだした倉澤さんは、一橋大学を卒業し印刷会社の社長にまで栄達したのだけど、1945年の終戦から1996年までの51年間もの間、生き残りの特攻隊員や遺族の報復を恐れて、つねに軍刀や拳銃を隠し持っていた。「多くの隊員を出撃させたので、恨みに思われるのは仕方ないし、遺族からも反感を買っているので、いつ報復されるかわからないと、夜も安心して寝ることができなかった。80歳までは自己防衛のために、ピストルに実弾を込めて持ち歩き、家では軍刀を手離さなかったんです」と告白しています。

 

しかし、倉澤さんが一番恐れていたのは、自分が戦場に送りだした若者たちの遺族や虐待した学生というより、むしろ、自分自身の良心を恐れていたのではないでしょうか。

 

職業軍人は、じぶんたちは特攻になることはないのに、大学生を大学から引っぱってきて特攻にさせた。

 

そうした軍人たちからいわせると、大学でいろんな学問を学んできた学徒兵たちを「洗脳」するのに手を焼いたと。

 

大学で「法律とかね、政治を知っちゃって、ま、今の言葉で言えば、人のいのちは月より重いなんて」知っちゃった大学生たちは扱いが難しかったと回想している。

 

振武寮に送られた大学生は、口には出さないけど、自分たちを精神的に叩きのめし「死」に追い込もうとする職業軍人たちに反抗的な態度を示していたことが、この証言からもわかりますね。

 

特攻隊員として再教育するためには、大学で学ぶ教養などは邪魔だった。

 

学問はまさに人を生かす英知。死ね、と定められた人間にとって「思考」は邪魔でしかなかった。

 

だからこそ、世間常識がないうちに洗脳するのが必須と考えたのでしょう。

 

靖国神社の「英霊思想」とは?

  

日本では、靖国神社に参拝することが、兵士として亡くなった人たちへの慰霊だと、そう単純に信じられています。戦前と変わらず、なにも深く考えることなく、ただ感情的な感傷主義で、慰霊は靖国のお参り、という図式にいまだに取り込まれているのです。

  

靖国の「英霊」となって死ぬことを強要された人々の魂を靖国の「英霊」としてお参りすることは、ほんとうに慰霊となるのでしょうか。靖国は本当に魂の安らぎの場なのでしょうか。

 

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20 忠魂碑

 

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与保呂村忠魂碑

戦死しても、なお国の「弾丸」としてまつられる「英霊」。

 

ひとりの等身大の青年が、靖国の「英霊」として死を強要されるということは、どういう事だったのか。

  

みなさんもぜひ、大貫健一郎さんの本を読んでみましょう。

 

読者のコメント欄から

 

題名や副題から「振武寮」における帰還兵への理不尽な横暴がメインストーリーのように思えるが、特別操縦見習仕官となり、のち特攻隊となるが、飛行機の故障で帰還し、そして終戦までに到るまでの筆者の経験が綴られている。特攻隊として出撃することへの心の葛藤、それは今の時代を生きる我々からは想像を絶する戦いであったことと思われるが、本書では正にその想いが面々と綴られている。


特攻隊の仲間との筆者の思い出は、読んでいる自分もまるで特攻隊の一員となっているように錯覚するほど生き生きと描かれており、戦後数十年を経ても、筆者が如何に仲間を強く想い続けていたかが想像される。終戦近くになると戦闘機の性能や整備の精度が落ちており、沖縄に辿り着けなかった機が多数あったことには驚かされた。

 

最近戦争経験者が死期を悟り、ようやく口を開き始めた理由、頑なに語らなかった理由がよくわかる書。読んでいて感じたのは、軍隊の陰湿ないじめや理不尽さが、今の日本のブラック企業にも通じるものがあるということ。私が勤めていた会社で上司が過労死し、葬儀で常務がニヤけていたのを思い出す。皺寄せを受ける者達に対する、狂気とも言える冷たさ、無関心さ。

大貫氏が終戦直後、見栄を捨て、最底辺の仕事につき何をやってでも生きていこうとするたくましさには感動した。長女の大貫妙子さんは終戦時に父の人生は終わり、後は余生だったと言っていますが、あの終戦直後のタフさが最も尊いものに思えた。これが生きるということなのだと思う。

 

亡くなる前に、右翼からのバッシングも恐れず、勇気ある証言をした大貫健一郎さんも、病に倒れ、いまはなき人となりました。

 

その父の老後を看病し、最期をみとった、

娘で歌手の大貫妙子さん。

 

彼女の純粋で芯の強い美しい歌声は、きっとお父さん譲りだな、って、彼女の歌声を聴きながら思うのです。

 

三びきのくま

 

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