Sophist Almanac

世界について知りたいとき

そもそも「徴用工」って ~ ネットから削除される前にドキュメンタリーみておこう!

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日本のニュースがよくわからないときには、海外メディアのニュースを読んだ方が分かりやすいということがよくあります。

 

 

あと歴史も

ちゃんと勉強しておきたいね。

 

そもそも「徴用工」ってなんだろう

 

日本で「徴用工」問題を「経済問題」として語る前に、「徴用工」とはなにか、私たちはちゃんと知っておかなきゃね。

  

 

番組では、この本の内容を映像化して、当時の徴用工の暮らし・思いはどんなものだったかを伝える。また、鄭さんという一人の徴用工の後ろには、何十万という数の徴用工たちがいて、中には強制的な連行や危険な労働環境をとおして、命を落としたり、心身に傷を負ったりした人もいる。去年10月の韓国大法院の判決をきっかけに日韓両国の関係が悪化する中、日本での取材以外にも韓国でこの問題に関りのある人々にも直接話を聞く。一次資料に当たるなど、事実に基づいて番組を制作・放送することで、関係改善の一助としたい。 

 

 

 

 

麻生一族の炭鉱徴用残酷史…慰霊碑に「朝鮮人」の字も刻ませなかった 中央日報

2019年03月07日 07時32分

 

s.japanese.joins.com

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福岡県田川にある麻生セメント工場の全景。工場の壁面に麻生一族の家紋がついている。

 

 福岡空港から車に乗って東に約1時間を走り、田川というところに向かった。田川は日本3大石炭生産地である福岡県筑豊地域の代表的な炭鉱地だ。ここに日帝強占期時代、約15万人の朝鮮人労働者が強制動員された。 

  石炭と石灰石は戦争中の日本にとって非常に重要な物資だった。この地域の人々は石炭を「黒いダイヤモンド」、石灰石を「白いダイヤモンド」と呼んだ。筑豊地域で採掘された石炭と石灰石八幡製鉄所(現・新日鉄住金)に送られ、ここで生産された鉄鋼製品は長崎などで軍艦や戦闘機のような軍需物資を作るために使われた。 

  ダンプトラックと大型レミコンが列をなし、その進行方向に従ってついていくと巨大な工場建物が現れた。「安全第一」と書かれた工場の壁面に麻生家の家紋が刻まれていた。1919年から麻生一家が運営している麻生セメントの工場だ。 

  麻生鉱業は1969年に石炭事業から手を引いてから麻生産業に名前を変えたが、麻生セメントは今でも麻生グループの核心事業体だ。 

  1939年当時、麻生セメントには約1000人の朝鮮人労働者がいた。取材に同行した在日史学者のパク・グァンス氏は「石炭の炭鉱ではダイナマイトを使って作業し、そのたびに大規模な人命被害が発生したが、石灰の石炭鉱では重労働によって一日に1~2人が亡くなった」と説明した。「1940年代以降、朝鮮人労働者が大きく増えたため朝鮮人寮が別途あったが、自由のない収監所同然の生活だったと付け加えた。 

  労働環境も凄惨だった。賃金がまともに支給されなかったり、暴力を振るわれたりする場合が日常茶飯事だった。1944年に福岡県が作成した「移入半島人朝鮮人労務者に関する調査表」によると、麻生鉱業の労働者7996人のうち4919人が逃走したことが明らかになっている。労働者の61.5%が逃走するほど、現場の労働環境が劣悪だったということだ。 

  パク氏の案内で近隣の共同墓地に移動した。小さな納骨堂の鉄門を開くと白い布に包まれた遺骨箱が2段の棚に並んで置かれていた。左側に朴OO、金OOなど朝鮮人名前が書かれた遺骨箱が、右側には日本人と推定される名前が書かれた遺骨箱が置かれていた。「無」と書かれた名のない遺骨箱も幾つもあった。 

  パク氏は「朝鮮人14柱、日本人18柱の遺骨が納められているが、麻生セメントで働いていた労働者や労働者の家族のものと推定される」としながら「当時創氏改名したことを勘案すると朝鮮人の遺骨はもっと多いかもしれない」と説明した。遺骨は1976年に穴観音という小さな寺院に放置されているのを当時の在日史学者である故キム・グァンヨル氏が発見して納骨堂に安置した。

 

  だが、納骨堂の上に立てられた慰霊碑には「朝鮮人」という字さえなかった。当時麻生セメント側と交渉を行って慰霊碑と納骨堂を用意したが、麻生セメント側では最後まで「朝鮮人」と刻むことを拒否したという。パク氏は「今でも毎年麻生セメントの関係者が慰霊祭を行っているが、特に朝鮮人労働者を称えるものではない。当時の歴史を知る人が残っていない」と話した。 

 

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  太平洋戦争(1941年~45年)末期になると筑豊地方の朝鮮人労働者の数が急増する。日帝が国民徴用令を朝鮮にも適用し始めたためだ。当時10代の中・高校生まで徴兵した日帝は不足した労働力を朝鮮人、中国人から賄わなければならなかった。 

  日本石炭統制会によると、筑豊地方の朝鮮人労働者比率は1941年13.36%(9213人)から、わずか3年後の1944年には32.94%(3万79人)へと3倍以上に増えている。 

  田川から遠くない飯塚も主要石炭生産地だった。飯塚は麻生家の領地だと呼んでもいいほど、あちこちで麻生家の影響力を確認することができる。市中心部には麻生飯塚総合病院と麻生専門学校、スーパーマーケットASOがあり、あちこちに麻生太郎副首相の選挙ポスターが目についた。麻生太郎氏はここで合計13回国会議員に当選した。 

  麻生鉱業の創業者・麻生太吉が麻生氏の曽祖父にあたる。飯塚にある麻生本家には今でも麻生家の人々が暮らしている。高さが2メートルほどの塀が100メートル以上続いた。豪勢な門を通り過ぎてしばらく歩いくと、運動場ほどの庭が現れた。 

  住宅管理人は記者に「麻生家は成金」と何度も強調した。麻生鉱業を母胎にした麻生グループは現在90社の子会社を率いる中堅グループに成長した。麻生太郎氏の妻の父は鈴木善幸元首相、母方の祖父は吉田茂元首相だ。

 

うちの地元にも白骨ダムという名前で地元の人たちから呼ばれているダムがあります。日本の歴史の教科書には載っていないでしょうが、地元の人たちは山の中で行われていた残酷なことを知っていました。