Japanese American Soldiers: MIF 二つの祖国のはざまで戦った兵士たち ~ ハリー・フクハラさんとヒガ・タケジロウさんの場合
16歳でハワイに渡った比嘉武次郎さん
- ファミリー・ヒストリーをリサーチしてみよう !
- 1941年12月8日、日本のパールハーバー奇襲攻撃
- 広島: ハリー・フクハラさんの場合
- 沖縄: ヒガ・タケジロウさんの場合
- ウエストコーストに行ったら、必ずここは訪れよう !
ファミリー・ヒストリーをリサーチしてみよう !
今は四世代や五世代前のつながりになってしまって、たどることも難しいけど、まだとても日本が貧しかったころ、日本中どこでも、どの家系にも一人ぐらいは必ず海外に移民にいった。そして海外から日本の家族に仕送りをしたものだけど、そのお金すらがとても家族を助ける大切なものだったの。
うちの家でも、母方の親戚にも、父方の親戚にもいて、いろんな話を聞きました。お母さんは、L.A. のおばさんが送ってくれたものだといって、とっても可愛いネックレスを大切にしていた。父方の親戚は、弟が頑張って苦労してブラジルから送金してくれたお金で、町で呉服店を開くことができたんだということを、とっても大切に思っていた。
四世や五世の世代になり、親戚づきあいもとっくになくなってしまって、いまや海外に日系の親戚がいるという事も忘れられているかもしれないけど、調べれば、必ず親戚の誰かが海外に行っているはず。また、遠い遠い親戚をたどって訪れてみるのもいいかも。例えば日系アメリカの人たちはいまも日系の歴史と絆を大切にしています。
今日はそんな日系の人たちの歴史をご紹介。
1941年12月8日、日本のパールハーバー奇襲攻撃
1941年12月8日未明、(ハワイ時間12月7日)、日本海軍がハワイの真珠湾を襲撃した。そして戦争が始まった。
それで、アメリカ国内に住んでいた日系アメリカ人の人々は、全財産を没収され、強制収容所に入れられた。そんななか、二世の若者たちは、アメリカ陸軍の情報部 (MIS) に入隊し、もう一つの祖国 (日本) と闘う運命を迫られた。
アメリカ陸軍情報部(Military Intelligence Service, MIS)は、第二次世界大戦期にアメリカ陸軍が有した部局である。戦略的情報および戦術的情報の収集および分析を目的とした。第二次世界大戦中のアメリカ陸軍には、MISの他に信号保安局(Signal Security Agency, SSA)、防諜隊(Counter Intelligence Corps, CIC)といった諜報機関が設置されており、これら3組織の隊員は世界中で活動していた。
太平洋戦線には日系2世の将兵で編成された語学要員部隊が派遣され、翻訳や情報収集、文書の分析、投降の呼びかけ、捕虜の尋問といった任務に従事し、戦後の対日占領任務にも参加した。
広島: ハリー・フクハラさんの場合
MIS soldier Harry Fukuhara interrogates a Japanese POW on Aitape, New Guinea, in April 1944.
JAMsj I WWII: Military Intelligence Service — Japanese American Museum of San Jose
広島生まれで、シアトルでビジネスをしていたお父さんがなくなり、ハリー・フクハラさんの母と兄は広島に、自分はアメリカに、戦争は家族すら引き裂きます。そんなときパールハーバーが。アメリカの強制収容所にいれられます。ハリーさんは MIS の語学兵として従軍します。
そして日本の敗戦後、ついに母と兄のいるもう一つの故郷、広島に向かいます。そこはあの原爆が多くの人々のいのちを奪った街でした。
実際に、ハリーさんのお話を聞いてみましょう。米軍 GHQ として広島に帰還したハリーさんは、焼け野原の広島で母と兄に再会します。
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沖縄: ヒガ・タケジロウさんの場合
1872年、いわゆる「琉球処分」で日本政府によって琉球王国をとりつぶされ、日本に併合された沖縄では、琉球処分の1872年から沖縄戦の開始1945年の、わずか73年間の日本の支配のもとで皇民化教育が徹底され、厳しい同化政策がとられます。日本軍は、沖縄の人々に沖縄語を使っただけでもスパイとみなす、と指令を出して禁止し、沖縄戦のただ中で、実際にスパイとして虐殺されたケースも少なくなかったといわれています。
日本が更に軍国主義を強め日中戦争を戦っていた1936年、16歳だった比嘉武二郎 (Takejiro Higa) さんは、ハワイにいる姉に、日本が僕を兵隊として満州に送りださないうちに、はやくハワイに呼び寄せて、とお手紙を書きます。
1941年、そのハワイに日本が奇襲攻撃をおこないます。ハワイでもアメリカ本土でおこなわれた日系人社会の強制収容所送りと同様、様々な差別と粛清が始まります。
そんななか比嘉さんも MIS のメンバーとして、その後、故郷の沖縄に派遣されます。
沖縄戦では実に沖縄の4人に1人の命が奪われ、沖縄はまさに生き地獄にされました。旧制中学の14歳の少年も、女学校の16歳の女の子も、戦場に送りだされたのです。こうして日本軍によって戦場におくられた半数以上の学徒たちが命を奪われました。
一方、米軍から語学兵として戦場に送りだされた比嘉さんは、沖縄の言葉を使って、故郷の人たちを懸命に救い出そうとします。沖縄系MIS メンバーは沖縄戦で多くの故郷の人々を救いました。日本語ではなく、沖縄語 (ウチナーグチ) だからこそ、沖縄の人々の心にとどいたのです。
12:41~ は必見 !
日本語でも英語でもなく、沖縄の言葉だからこそ沖縄の人々を救うことができたのです。
沖縄語で語りかけた時、人々がガマから出てくるのが見えます。涙なくしては見れません。沖縄系アメリカ人兵士の人たちの歴史も調べてみたいですね。
比嘉さんは戦場で米軍の通訳兵として駆けまわる中、懐かしい学友たちにも巡り合います。
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ウエストコーストに行ったら、必ずここは訪れよう !
Japanese American National Museum
docent 博物館ガイドの人の話を聞いてみよう
日本語ガイドさんもいらっしゃいます。
1898年 米西戦争勃発。アメリカの戦艦メイン号が爆沈され、7人の一世を含む268人の乗組員が戦死。
1917年 第一次世界大戦のため、日本人だけのD歩兵中隊第一ハワイ歩兵連隊が編成される。
1922年 アメリカ最高裁判所は、オザワ訴訟に対し、人種を理由に日本人の帰化を禁止する判決を下した。
1924年 クーリッジ大統領が1924年移民法に署名し、日本からの移民が事実上停止された。
1925年5月25日 アメリカ最高裁判所が、ヒデマツ・トヨタのアメリカ市民権を剥奪する。かれは第一次世界大戦に参戦、1921年に市民権を与えられていた。
1935年6月24日 ルーズベルト大統領はナイ法案に署名し、第一次世界大戦に参戦した500人のアジア人退役軍人に市民権を与える。
1941年10-11月 ルーズベルト大統領が、カーティス・B.マンソンに、日系アメリカ人の忠誠度について調査するよう命令。マンソンは報告書の中で、日系アメリカ人は忠誠心があり、ほとんど脅威にはならないと結論した。アメリカ陸軍情報部は、第四陸軍のもとサンフランシスコのプレシディオに秘密語学学校 (MIS) を開設。4人の二世インストラクターと60人の生徒(うち58人は日系アメリカ人)が集められた。
1941年12月7日(米東部時間) ハワイ真珠湾のアメリカ海軍基地が日本軍に爆撃された。FBIと警察 は、たちまちハワイとアメリカ本土の日系コミュニティ・リーダーたちを逮捕し始める。
1941年12月11日 ハワイ州予備役将校訓練部候補生とホノルル高校の志願兵によってハワイ州兵隊が新編成され、アメリカ陸軍の指揮下に入る。高校生の志願兵のほとんどは二世だった。
1942年1月19日 ハワイ州兵隊に所属していた317人の二世が、なんの説明もなく除隊され、4-C「敵性外国人」に分類される。
1942年1月23日 アメリカ本土の軍隊にいる日系アメリカ人たちが、それぞれの部隊から隔離される。
1942年2月19日 フランクリン・D.ルーズベルト大統領が、大統領行政命令9066号に署名し、12万人の日系アメリカ人を強制収容する軍事行動を可能にした。
1942年2月23日 全員日系二世から成る大学志願兵部隊(トリプルV、Varsity Victory Volunteers)が、ハワイで第34戦闘工兵連隊のもとに編成される。
1942年3月30日 アメリカ陸軍省は、西海岸における日系アメリカ人の徴兵を中止するよう命令。
1942年5月 アメリカ陸軍情報部語学学校の最初の卒業生たちが、アリューシャン列島と南太平洋に送られる。
1942年5月25日 軍事地域からすべての日系アメリカ人を排除する立ち退き命令によって、アメリカ陸軍情報部語学学校が、サンフランシスコからミネソタ州のキャンプ・サべージに移される。
1942年5月26日 ジョージ・C.マーシャル将軍の命令により、ハワイ臨時歩兵大隊が、ハワイ州兵隊の日系アメリカ人によって編成される。
1942年6月12日 ハワイ臨時歩兵大隊の1,432名がホノルルからサンフランシスコに移動され、第100歩兵大隊として編成される。
1942年6月17日 アメリカ陸軍省は、「市民権その他の事情に関係なく、日本人及びその子孫が軍務につくこと」を受け付けないと発表する。
1942年6月26日 陸軍長官G-2セクションは、日系兵士部隊をヨーロッパ戦線へ送るかどうかを決めるため、日系市民の軍隊活用に関する委員会設置を勧告する。
1942年9月14日 日系部隊の結成は、「かれらに対する全般的な不信感」を理由に拒絶される。
1942年10月31日 第100歩兵大隊(B歩兵中隊第3小隊)の26人の日系兵士が、特別任務のため、キャンプ・マッコイからミシシッピィ州湾岸のシップ島とキャット島に送られる。この特別任務とは、日系人特有の匂いを犬に覚えさせ、日本人を攻撃するよう訓練するために使われることだった。
1943年1月6日 第100歩兵大隊が、ウイスコンシン州キャンプ・マッコイから、ミシシッピィ州キャンプ・シェルビーに移される。
1943年1月31日 大学志願兵部隊(トリプルV)の兵士たちの希望により、この部隊は解散し、かれらは第442連隊戦闘部隊に入隊出来るようになる。
1943年2月1日 第442連隊戦闘部隊が、ルーズベルト大統領によって編成される。「アメリカ精神とは、いまも昔も、人種や先祖の問題ではないのだ」とルーズベルト大統領は語った。
1943年3月28日 ホノルル商工会議所が、442部隊志願兵1,686名の壮行会をイオラニ・パレスで開いた。
1943年5月 442部隊が、ミシシッピィ州で訓練を始める。
1943年8月21日 第100歩兵大隊がヨーロッパでの実戦のため出発。9月2日に北アフリカのオランに上陸する。
1943年9月22日 第100歩兵大隊が、イタリア、サレルノの海岸に上陸、北上する。
1943年9月29日 野球の有名選手だったシゲノ・ジョー・タカタが、第100歩兵大隊で最初に戦死。殊勲十字章を日系兵士として最初に受ける。
1943年10月 日系アメリカ人女性が、陸軍婦人部隊への参加を許される。第二次世界大戦中、及び戦後を通し、300人以上の日系アメリカ人女性が、陸軍婦人部隊に参加した。
1943年11月3日 第34師団133歩兵連隊と第100歩兵大隊が、ナポリの南、ヴォルツレノ川沿いでドイツ軍への攻撃を開始する。
1944年1月24日 カシノの戦いが始まり、4回の攻撃の末、4ヶ月かかってカシノを陥落。第100歩兵大隊が最初の2回の攻撃で戦った。
1944年2月 メリルの略奪者と呼ばれた、14人の言語専門家の二世兵士たちが、北ビルマの敵軍後方で作戦行動をとる。
1944年3月26日 第100歩兵大隊が、グスタボ・ラインとローマ間の第2前線の拠点であるアンチノに上陸。第100歩兵大隊は4月にアンチノを攻撃、ローマに進撃した。ローマは6月5日に陥落。
1944年4月 第1399工兵大隊が編成され、ハワイ諸島での非戦闘工事と保全管理プロジェクトに従事する。
1944年6月2日 442部隊がナポリ湾に到着。6月10日に、ローマ北西のシビタベッチアで実戦経験を積んだ第100歩兵大隊と合流する。
1944年6月26日 442部隊は第100歩兵大隊を含め、第5軍第34師団に配属され、戦闘に参加。ベルベデーレに進攻を開始する。
1944年7月 アメリカ陸軍情報部の二世兵士5名が、「デキシー派遣団」の一員として、中国共産党の戦時司令部、延安に送られ、軍事情報収集にたずさわる。
1944年8月 アメリカ陸軍情報部語学学校が拡大、キャンプ・サーべージからミネソタ州のフォート・スネリングに移される。
1944年9月26日 442部隊がナポリを出発、フランスへ向かう。
1944年9月30日 442部隊が第7軍第36師団(別名、テキサス師団)に配属される。
1944年10月15日 442部隊が、ボージュ山脈のブルーヤースの戦闘に参加する。
1944年10月16日 ブルーヤースにおいて、100大隊がブルーヤースの要、丘Aを攻略、第2大隊が丘Bを攻略し、町に進攻した。
1944年11月22日 100大隊がビフォンテインを攻略。この戦闘で多くの死傷者を出した。
1944年10月26-31日 442部隊が、退路を絶たれ敵軍に囲まれていた「失われた大隊」を救出。この戦闘では、211名の命を助けるために、800名の二世兵士が死傷した。
1945年2月19日 50名以上の陸軍情報部二世兵士が、アメリカ海軍とともに、太平洋での最後の戦闘地のひとつ、硫黄島に上陸する。
1945年3月 522野戦砲兵大隊が442部隊から離れ、第7軍を援助して、中部フランスとドイツの間のジークフリート要塞線で戦うために送られる。
1945年3月28日 442部隊はフランスからイタリアへ転戦。
1945年4月1日 沖縄戦。アメリカ陸軍情報部の二世兵士たちが、防衛プランや軍隊の位置を示した文書、砲兵隊の位置を示した地図などの日本語文書を訳し、沖縄での戦闘を短縮した。
1945年4月5-6日 442部隊がイタリアのナチ軍を山側から急襲、ナチ・ゴシック要塞線を一日で突破する。
1945年4月5日 サダオ・ムネモリが、2人のアメリカ兵の命を救うために、ドイツ軍の手榴弾に飛び込む。かれは日系アメリカ人でただひとり、第二次世界大戦中に、戦闘員として受ける最高の栄誉である名誉勲章を受章する。
1945年4月29日 522野戦砲兵大隊が、ダッハウ・ユダヤ人強制収容所の生存者たちに遭遇する。
1945年9月2日 日本が降伏文書に署名する際の通訳を務めるため、日系二世兵士がアメリカ戦艦ミズーリ号に乗船。これをもって、第二次世界大戦が終結する。
1945年10月29日 第1399工兵大隊が「優れた行動と記録的な業績、そしてひときわ優れた任務への献身」により、勲功賞銘板を受賞する。
1946年7月15日 442連隊戦闘部隊が、ホワイトハウスの庭でトルーマン大統領の接見を受ける。大統領は「君たちは敵と戦っただけでなく、人種差別とも戦った。そして勝ったのだ」と語った。
1950年6月25日 北朝鮮が韓国を侵略し、朝鮮戦争がはじまる。多くの日系二世退役軍人が召還され、こんどは人種差別のない、統合された軍隊で任務についた。
1953年10月27日 ヒロシ・ハーシー・ミヤムラが、7人の朝鮮戦争の英雄とともに、アイゼンハワー大統領から名誉勲章を受章する。
1955年2月16日 28期ハワイ州議会が開会、初めて民主党が上下両議会で主導権を握る。
1962年11月 442部隊退役軍人のダニエル・K.イノウエが、日系アメリカ人として始めて上院議員に当選する。同じく442部隊退役軍人のマサユキ・スパーク・マツナガは、下院議員に当選する。
1965年 アメリカがベトナム戦争に突入。次世代の日系アメリカ人たちが、この戦争で戦った。
1969年1月1日 ロドニー・ヤノ軍曹、ヘリコプター・クルー・チーフは、手榴弾の爆発で激しく負傷していたにもかかわらず、味方に供給するため、ヘリコプターから弾薬箱を投げつづけた。ヤノは死後、名誉勲章を受章する。
1969年3月20日 テリー・カワムラ伍長の部隊の兵舎が、北ベトナム軍に侵入され放火される。カワムラは、みずから弾薬の上に飛び込み、2人の兵士の命を救った。かれは死後、名誉勲章を受章する。
1973年 アメリカ陸軍情報部の機密文書が、機密扱いからはずされる。
1980年5月9日 カリフォルニア州モントレーのプレシディオにあるアメリカ防衛言語研究所の3つの建物に、第二次世界大戦で戦死したアメリカ陸軍情報部の日系二世兵士の名前が冠せられる。
1988年8月10日 ロナルド・レーガン大統領が下院法案442号に署名し、第二次世界大戦中の日系人強制収容に関して、政府が公式に謝罪し、生存する被収容者に補償金が支払われる。
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