Sophist Almanac

世界について知りたいとき

哲学のススメ➁ オルテガ・イ・ガセット - 「大衆」ってなんだろう

 

大学では、ぜひ四年間で一つでもいいから、

哲学あるいは現代思想系の授業を受講してほしいなと思います。

 

哲学 (philosophy) とは、人間の英知 (sophia) を愛すること (philo) 。

お薦めの哲学の本を紹介してほしいというリクエストがあったのですが、

まず良質な本をいろいろ手にして読んでみるということが大切。

 

そして、これは、という素晴らしい言葉をノートに取りながら読み進めることが大切です。

 

つねに哲学は、いま、ここに、生きている私たちに「見る力」「生きる知恵」を与えます。

 

Ortega y Gasset, The Revolt of Masses (1930)

 

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名著紹介

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やっぱ民放やネットテレビができてない良質な仕事というものを NHK はやってくれる。NHK のいい仕事、応援したいですね。 

 

名著84 オルテガ「大衆の反逆」:100分 de 名著

 

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インターネットやSNSの隆盛で常に他者の動向に細心の注意を払わずにはいられなくなっている私たち現代人。自主的に判断・行動する主体性を喪失し、根無し草のように浮遊し続ける無定形で匿名な集団のことを「大衆」と呼びます。そんな大衆の問題を、今から一世紀近く前に、鋭い洞察をもって描いた一冊の本があります。「大衆の反逆」。スペインの哲学者オルテガ・イ・ガセット(1883 - 1955)が著した、大衆社会論の嚆矢となる名著です。

 

社会のいたるところに充満しつつある大衆。彼らは「他人と同じことを苦痛に思うどころか快感に感じる」人々でした。急激な産業化や大量消費社会の波に洗われ、人々は自らのコミュニティや足場となる場所を見失ってしまいます。その結果、もっぱら自分の利害や好み、欲望だけをめぐって思考・行動をし始めます。自分の行動になんら責任を負わず、自らの欲望や権利のみを主張することを特徴とする「大衆」の誕生です。20世紀にはいり、圧倒的な多数を占め始めた彼らが、現代では社会の中心へと躍り出て支配権をふるうようになったとオルテガは分析し、このままでは私たちの文明の衰退は避けられないと警告します。

 

オルテガは、こうした大衆化に抗して、自らに課せられた制約を積極的に引き受け、その中で存分に能力を発揮することを旨とするリベラリズムを主唱します。そして、「多数派が少数派を認め、その声に注意深く耳を傾ける寛容性」や「人間の不完全性を熟知し、個人の理性を超えた伝統や良識を座標軸にすえる保守思想」を、大衆社会における民主主義の劣化を食い止める処方箋として提示します。

 

政治家学者の中島岳志さんによれば、オルテガのこうした主張が、現代の民主主義の問題点や限界を見事に照らし出しているといいます。果たして、私たちは、大衆社会の問題を克服できるのか?現代の視点から「大衆の反逆」を読み直し、歴史の英知に学ぶ方法やあるべき社会像を学んでいきます。

 

Part 1 『大衆の時代』

 

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大衆とは「みんなと同じ」だと感じることに、苦痛を覚えないどころか、それを快楽として生きている存在だと分析するオルテガ。彼らは、急激な産業化や大量消費社会の波に洗われ、自らのコミュニティや足場となる場所を見失い、根無し草のように浮遊を続ける。他者の動向のみに細心の注意を払わずにはいられない大衆は、世界の複雑さや困難さに耐えられず、「みんなと違う人、みんなと同じように考えない人は、排除される危険性にさらされ」、差異や秀抜さは同質化の波に飲み込まれていく。こうした現象が高じて「一つの同質な大衆が公権力を牛耳り、反対党を押しつぶし、絶滅させて」いくところまで逢着するという。第一回は、オルテガの社会分析を通して、大衆社会がもたらすさまざまな弊害や問題点を浮き彫りにしていく。

 
 

 

Part 2『リベラルであること』

 

オルテガは、大衆化に抗して、歴史的な所産である自由主義リベラリズムを擁護する。その本質は、野放図に自由だけを追求するものではない。そこには「異なる他者への寛容」が含意されている。多数派が少数派を認め、その声に注意深く耳を傾けること。「敵とともに共存する決意」にこそリベラリズムの本質があり、その意志こそが歴史を背負った人間の美しさだというのだ。そして、自らに課せられた制約を積極的に引き受け、その中で存分に能力を発揮することこそが自由の本質だと主張する。第二回は、オルテガの思想を通して、自由やリベラリズムの本質を明らかにしていく。

 

 

中島岳志先生のお話 (東京工業大学教授)

過去の英知とともに生きる

今回、この『大衆の反逆』を通じてみなさんと考えたいと思っているのは、「リベラルと民主主義」という問題です。

著者のオルテガは、二十世紀を生きたスペインの哲学者で思想家ですが、彼は本書の中で、「大衆が社会的中枢に躍り出た時代」にあって民主制が暴走するという「超民主主義」の状況を強く危惧しています。そして、それと対置する概念として「自由主義=リベラル」を擁護しました。

第2回で詳しくお話ししますが、彼が言う「リベラル」とは、自分と異なる他者と共存しようとする冷静さ、あるいは寛容さといったものです。「大衆」が支配する時代においては、そうした姿勢が失われつつあるのではないかというのが、オルテガの指摘でした。

「大衆」という言葉が使われていますが、これは一般的にイメージされるような階級的な概念とはまったく異なります。オルテガはまた「大衆」の対極にある存在を「貴族」と呼んでいますが、これもお金をもっている人や、ブルジョア、エリートといった意味ではありません。過去から受け継がれてきた、生活に根付いた人間の知。あるいは、自分と異なる他者に対して、イデオロギーを振りかざして闘うのではなく対話し、共存しようとする我慢強さや寛容さ……。そうした、彼の考える「リベラリズム」を身に付けている人こそが、オルテガにとっての「貴族」であったのです。

オルテガは、こうした「貴族的精神」が、大衆社会の中でどんどん失われていると考えていました。そして、そのことによって、民主制そのものが非常に危うい状況になっていると指摘したのです。

そして、この問題を考えるときにオルテガが重視したのが、第3回で取り上げる「死者の存在」です。

私たちの社会には、過去の人々が失敗に基づく経験知を通じて構築してきた、さまざまな英知があります。それによって、私たちの行動や選択は一定の縛りを受けている。つまり、すでにこの世を去った「死者」たちの存在が、現代や未来に対する制約になっていると言えるでしょう。

そのことを、私たち人類は当然のこととして受け止めてきた。ところが現代──オルテガが生きた時代、ということになりますが──の大衆は、その死者の存在をまったく無視して、いま生きている自分たちが何か特権的な階級であるかのように考えている。そして、自分たちだけで何でも物事を決められるかのように勘違いしている。そうした時代は非常に暴走しやすいというのが、オルテガの抱いた危機感だったのです。

これも第3回で詳しくお話ししますが、これはいまの日本で非常に大きな注目を集めている「立憲」という問題そのものだと思います。

民主主義と立憲主義は、元来どうしても相反するところのある概念です。民主主義とは、いま生きている人間の多数決によってさまざまなことが決定されるシステム。対して、たとえいまを生きる人間が決めたことでも、してはならないことがあるというのが、立憲というシステムなのです。いくら多数派に支持されようと、少数派を抑圧してはならないし、守られるべき人権を侵してはならない。それは「死者からの制約」があるからです。

そうした立憲主義の考え方を取り入れて、「死者とともに民主主義を行っていく」ことが、いわば文明の英知だったはずなのに、近代はその英知を投げ捨てていっている。これは暴走にほかならない、というのがオルテガの主張でした。

彼がこうしたことを考えたのは、その生きた時代と密接な関係があります。オルテガが活躍したのはいまからおよそ百年前で、今回取り上げる『大衆の反逆』が刊行されたのは一九三〇年。これは、二二年にイタリアでファシスト党が政権を取り、三三年にドイツでナチスが政権に就く、そのちょうど合間にあたります。さらにその少し前、一七年にはロシア革命が起こるなど、まさに革命とファシズムの時代と言うべき時期でした。

そのさなかにオルテガは現代的危機を感じたわけですが、ではその「危機」が現在の私たちにとって遠い昔の問題かと言えば、そうではありません。むしろ私たちが生きるいまのほうが、問題はより深刻で、かつ精細な形で蘇ってきている。オルテガが「二十世紀がそぎ落とそうとしているもの」として危惧したことが、私たちの時代にはより根深い形で押し寄せてきているのだと思います。

この二十世紀前半の著作が、二十一世紀の私たちにとって非常にビビッドなものとして響いてくる。それは、私たちが民主主義の危機を感じ、オルテガが守ろうとした「リベラル」という概念が崩壊しつつあることを感じているからではないか。オルテガの言う「大衆」はいわば、そのときを生きている人間のことしか考えない傲慢な精神の象徴だったわけですが、いままた私たちはその「大衆」になろうとしているのではないか。そのことを意識しながら、自戒も含めて読み進めていきたいと思います。

 

Part 3『死者の民主主義』

 

オルテガによれば民主主義の劣化は「すべての過去よりも現在が優れているといううぬぼれ」から始まる。過去や伝統から切り離された民主主義は人々の欲望のみを暴走させる危険があると警告するオルテガは、現在の社会や秩序が、先人たちの長い年月をかけた営為の上に成り立っていることに気づくべきだという。数知れぬ無名の死者たちが時に命を懸けて獲得し守ってきた諸権利。死者たちの試行錯誤と経験知こそが、今を生きる国民を支え縛っているのだ。いわば民主主義は死者たちとの協同作業によってこそ再生されるという。第三回は、「死者たちの民主主義」という視点から、現代の民主主義の問題点や限界を照らし出す。

 

 

Part 4『「保守」とは何か』

 

オルテガは現代人が人間の理性を過信しすぎているという。合理的に社会を設計し構築していけば、世界はどんどん進歩してやがてユートピアを実現できるという楽観主義が蔓延しているというのだ。しかし、どんなに優れた人でも、エゴイズムや嫉妬からは自由になることはできない。人間は知的にも倫理的にも不完全で、過ちや誤謬を免れることはできないのだ。こうした人間の不完全性を強調し、個人の理性を超えた伝統や良識の中に座標軸を求めるのが「保守思想」だが、オルテガはその源流につながる。歴史の中の様々な英知に耳を傾けながら「永遠の微調整」をすすめる彼らの思想は、急進的な改革ばかりが声高に叫ばれる現代にあって、大きなカウンターになりうると中島岳志さんはいう。第四回は、オルテガの思想を保守思想の源流とつなぎながら読み解き、長い時間をかけて培われてきた良識や経験知に学ぶ方法を明らかにしていく。

 

 

日本のネット界で「保守」と言われている人たちは、ほんとうに「保守」なんでしょうか。たとえば民族主義や排斥主義を声高に叫んでいる人たちは、ほんとうに「保守」なの !? それはオルテガが語った「慢心した坊ちゃん」なんじゃないの !?

 

日本のいわゆる「保守」とよばれているような人たちの特徴は、排外主義と性差別と在日米軍基地推進派で、黒塗りの車に乗って街宣している人たちまでそうなので、日本の右翼はなぜ親米なのか、という非常に奇妙な現象も生まれてきます。

 

また、日本では民主主義を「カタチ」として教え、人間のダイナミックな歴史としてあまり教えていないので、民主主義がなにか形式主義にしか思えない人たちも多く、とりあえずカタチまもってれば民主主義はなんとかなるやろ、となるわけです。民主主義を多数決だと信じ込んでいる人がなんと多いことか・・・。それが、オルテガが指摘する多数者 (マジョリティー) という驕り (おごり) ではないでしょうか。

 

民主主義には、対話、つまり議論が不可欠なのですが、日本では議論より従うことが美徳のように見なされていて、議論する人たちは、しんどい人たち、とみなされたりします。でも対話なく従うだけの夫婦関係や家族を想像してみてください。逆に、ものすごいしんどいですよね。

 

いま、保守化が進んでいるというけど、ほんとうにそれは保守なのか、じっくり、クリティカルに見ていくことが、ますます大切になってきていると思います。

 

熱狂を疑え!

「社会の行く末を左右するような決定が、丁寧に議論されないまま、いつの間にか決まってしまっている」「大きな不祥事が生じても誰も責任をとろうとしない」「それどころか不都合な事実については誰もが口を閉ざし、事実が隠蔽されてしまう」……世界や日本で今、起こっている出来事をみていると、暗澹たる思いに沈んでしまいます。…と書き始めて、この冒頭の文章がガンディー「獄中からの手紙」のこぼれ話とほとんど同じことを書いていることに気づき愕然としています。その放送が今からちょうど2年前のことでした。状況は変わらないどころか、事態はさらに深刻さを深めていることを日々実感しています。

 

オルテガ「大衆の反逆」を番組で取り上げようと考えたのは、上述のような危機感の中で、ある言葉が胸の奥から浮上してきたからでした。

 

「敵とともに生きる! 反対者とともに統治する!」

 

この言葉はいったい誰の言葉だったのだろう? ネット上で調べてみて、ようやくそれがオルテガの言葉だということを突き止め、もう一度「大衆の反逆」を読み返すことにしました。驚くべきことに、この本は今からおよそ90年前の本であるにもかかわらず、現代の民主主義が直面している困難や問題点を予言するかのように言い当てている本でした。大学時代に一度通読していたにもかかわらず、そんな論点が展開されていたなど全く忘れていました。

 

さらに、そんなオルテガの思想を現代と結び付けて論じられている中島岳志さんの著書とも出会い、中島さんに、オルテガのもつ現代性を掘り起こしてもらうと、講師をお願いすることにしました。

 

「敵とともに生きる! 敵とともに統治する!」 この言葉に込められたオルテガの洞察は、中島岳志さんが解説してくれた下記の文章を読んでいただければわかるでしょう。それは中島さんが依拠する「保守思想」の根幹ともいうべき思想です。

 

「大衆の時代である現代、人々は自分と異なる思考をもつ人間を殲滅しようとしている。自分と同じような考え方をする人間だけによる統治が良い統治だと思い込んでいる。それは違う、とオルテガは言うのです。自分と真っ向から対立する人間をこそ大切にし、そういう人間とも議論を重ねることが重要なのだ、と」(NHKテキストP45より)

 

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この言葉に、まず自分自身が刺し貫かれました。チームでいろいろなプロジェクトを進めているときに、果たして自分は異なる意見にきちんと耳を澄ませていただろうか? そういう意見の人たちとじっくりと議論を積み重ねる努力をしてきただろうか? 自分の地位や数の論理にあぐらをかいて強引に物事を進めてきたことはなかっただろうか? 「民主主義」といってもそれは自分の「外」のシステムのことではない。私たち自身の足元の問題なのだと反省させられました。

 

かつての日本人たちは、異なる意見の人たちと丁寧に議論を積み重ねる叡知を持ち合わせていたと思います。たとえば、自らの所属する組織に向けてあえて厳しい批判を述べて正そうとした人が出てきても、その人を忌避することなく、むしろ有益な助言者として受け入れ評価しようとした事例を、私は数多く知っています。反対派の意見にも一理あると考えれば、丁寧に耳を傾け、双方の意見を「落としどころ」に練り合わせていくという努力も、数多くの人たちが行っていました。「敵ながらあっぱれ」という古くからの言葉には、そうした日本人の知恵が込められているとも感じます。

 

ところが、現代は、オルテガが「大衆の時代」と述べて厳しく批判した現象と全く同じような出来事が頻繁に起こっています。「組織のために有益な批判を行った人をも徹底的に冷遇する」「反対派の意見には一切耳を傾けず、鼻で笑うような対応をする」「多数派という立場にあぐらをかいて、丁寧な議論をすっ飛ばし、数の論理だけで強引に物事を進めていく」。オルテガが生きていれば、こんなあり方は、「保守」でも「民主主義」でもないと喝破するでしょう。それは、オルテガが示した大衆の典型的なイメージ、自らの能力や理性を過信した「慢心したお坊ちゃん」の業であると批判することでしょう。

 

オルテガが唱える真正の保守思想とは何か? 

  • 「自らとは異なる意見や少数派の意見に丁寧に耳を傾け、粘り強く議論を積み重ねる」
  • 「自らの能力を過信することなく、歴史の叡知を常に参照する」
  • 「短期的な目先の利益だけのために物事を強引に進めない」
  • 「敵/味方といった安易なレッテル貼りに組しない『懐疑する精神』を大切にする」
  • 「大切なものを守っていくために『永遠の微調整』を行っていく」。

いずれも、危機に瀕した民主主義を再生するための重要なヒントにあふれています。

 

オルテガが示してくれたように、「本物の保守」と「偽物の保守」を見極めなければならない。そのためには、中島岳志さんが繰り返し述べていた「熱狂を疑え」という姿勢を肝に銘じなければならない。そう、痛感しています。

 

ほんとの「保守」のクリテリア 

 

私自身は保守的な人間ではないと思うのですが、オルテガの語る「保守」のクリテリア (criteria 基準) から私たちもたくさん学ぶことがあります。

 

  • 「自らとは異なる意見や少数派の意見に丁寧に耳を傾け、粘り強く議論を積み重ねる」
  • 「自らの能力を過信することなく、歴史の叡知を常に参照する」
  • 「短期的な目先の利益だけのために物事を強引に進めない」
  • 「敵/味方といった安易なレッテル貼りに組しない『懐疑する精神』を大切にする」
  • 「大切なものを守っていくために『永遠の微調整』を行っていく」

 

組織論としても、とても大切なことだと思います。

 

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