「芸州武太夫物語絵巻」(立花家史料館蔵)
稲生もののけ物語、『稲生物怪録』(いのうぶっかいろく)は、江戸中期、寛延2年(1749年)の備後三次(現在の広島県三次市)のひとりの少年が経験した一か月にわたる物の怪との出会いをまとめた記録。稲生武太夫(幼名・平太郎)が体験したという、妖怪にまつわる怪異をとりまとめた記録。毎日毎日、飽きることなくいろんな「もののけ」がやってきます。
1749年7月6日 戸口いっぱいの老婆の顔
小さな三次の町では、すぐに噂がひろがるよね。みんなが押しかけて騒ぎになるので、村役場から立ち入り禁止令がでたようです。
『三次実録物語』試訳
六日、毎晩、かどぐちや大手 (おおて) のわきへ、人が障子をたたき、畳にあがってきてしまいます。声をたて、うるさくするので、支配方 (って !?) のほうから新八が呼ばれ、
「まちかた、ご家中、この以後、騒ぎをたてないようにお触れをいたした。そのうち、親切心から加勢にやってくるものは自由。一族はそれでもやってきてもかまわない」
今日、そのようなお触れがでたことが伝えられた。その夜より、人々が畳に上がってくることがなくなりました。
その夜、暮れすぎに、前の小屋に用事があって私が行ったのですが、小屋の入りぐち、四尺 (1.2m) の間口に、すみからすみまで、婆さんのしかみつらした顔があって、行くことができない。もしかしたら、状況が変わるかと、もとのところにもどって、踏み石より小屋までに十一の飛び石がある。雨が降っても草履で行くことができるのだけど、その飛び石が小屋の真ん中にあるのです。それをまっすぐに行ったところ、やはり間違いなく、四尺の入り口いっぱいに、この顔があので、通ることができません。
それ相応に、目、鼻、口がついていて、歯をむけば、二つほどお歯黒もつけているようで、顔の温みからして人のようで、どれだけ押しても動いたりしないので、家の中に戻り、わきざしの小刀をもってきて、いろいろ顔に討ちたてても、いっこうにたたないのです。
「芸州武太夫物語絵巻」(立花家史料館蔵)
それから手洗い場の水門の、まわりの手ごろな石をとりだし、小刀を左の手のほうにもちかえ、石を右手に持って、二つの目のあいだに打ちつけたのだけど、固くて通りにくいので、しぜんと小刀の先が目の方にずれていくのだけど、少しはうちたてることができた。
さらに叩きこみ、小柄まで叩きこみ、手をはなしてみたら、ちゃんと立ってきているのだけど、いっこうに血などすこしも出ず、顔はそのまま。
04.三次の夏を彩る江の川の夜鵜飼。三次物怪まつりと稲生物怪録 on Vimeo
それからしばらくして、蚊帳をつって横になったのだけど、足の先に死人がいて (!!!) 冷たくなってきたのだけど、右の足でふみのけようと、けりけり。左の足は、死人の下にあるので、右の足でもってふめどもふめども、うごかず。死人の上に右の足をおき、寝ようとするんだけど、死人が足の先からすぐに股に入ってきて、その冷たいことといったら、氷のよう。そのうちに私も寝てしまった。
あくる朝、何ごともなく、それから「小刀はどこの方に置かれているか、まず見にいこう」と思って、小屋の入り口を見れば、小刀をおいた所に、宙に小刀が、まるで糸で釣られているかのようにあるので、もしかしたら、柱のひび割れた目に刀をたて置いたのか、と思ったが、やはり、顔の中と思うところにたてたに違いがないはず、と、見ていると、したの石の上に、ちん、と音をたてて落ちたのである。
おおて
三次では「おおて」という言葉はよく使います。
子どもの頃、よくばあちゃんやじいちゃんからから聞いたんだけど、そのたびに「おおて」がわからないで、おおてどこ !? って聞いてたような。で、いままた「おおて」とは、どこだったか、思い出せない・・・。うちのおかんに聞くと、外の塀の事だよ、というけど。
民家では、
- 玄関 (正面玄関)
- 勝手口 (台所の裏口)
- 縁側 (仏間・客室にじかに上がる)
と、玄関が三つあります。
で、実は、お坊さんや、結婚式や、お葬式など、縁側を使います。お坊さんがこられたら、玄関ではなく、縁側からまわってもらいます。縁側には、そのための大きな大きな石が据えられています。
お歯黒
お歯黒って、まじ毎朝、ぬってたんか !? すっごい我慢できないくらい不味いらしいけど。いまは白ければ白いほどいいと言われるのに、その前は、黒ければ黒いほどいいと思われていた、とか。
ポーラ化粧品さんから
当時の日本としては、欧米なりの文化水準だというのを示したかったところもあり、明治3年には政府から貴族階級に向けてお歯黒と眉剃りをやめよう、という通達が出されました。しかし天皇から庶民まで幅広く浸透し、1000年以上続いてきた習慣。それを政府からのお達しとは言え、途端にやめるなど容易でないことが想像に難くありません。実際に戸惑う人も多く、明治6年に昭憲皇太后が自らやめられたことで、ようやく一般にまで浸透していったのです。こうしたことから、いかに文明開化の政策が国にとって重要なものであったのか伺えます。このように海外からの目を気にして自主規制した結果、徐々に衰退していったのだと考えられます。
江戸ガイドさんから
左の若い娘は歯は白く、眉もある。右のおかみさんは、お歯黒をし、眉をそり落としています。江戸時代は、このように化粧でその人のだいたいの年齢や立場がわかりました。
手水所
お手洗いは母屋とは別の所にあって、母方の実家やうちの家にも、そこに行く板張りのえんがわに続いた橋のようになっている渡し通路の途中にだいたい手を洗うところがありました。けっこう風流なもので、風鈴なども屋根からぶら下げてあったり、通路の横におかれた石臼のような石に水がたまっていて、手杓子ですくって洗う感じでした。下には小石がいっぱい置いてありました。水はけの為かな、とおもいます。