パックンが語る日本の「無宗教」の真実 ~ 日本は無宗教なの!? 無宗教だと思いこんでしまう日本のあぶなさとカルト宗教
パックンさんは、とっても知的で優しいですよね。
いまはどこかの大学の先生だと思います。
で、
話戻るけど、
日本ぐらい「宗教的」な国はないくらいだけど、
なぜか、日本に住んでいる人は、
自分は「無宗教だ」って思いこんでる人、多いよね。
やってみようクイズ。
ほんとに日本の人は「無宗教」なの !?
- ¨ 神社仏閣などに自主的にお参りすることがある?
- ¨ お葬式・法事・お盆の行事などを大切にする?
- ¨ お守りやお札などを買ったことがある?
- ¨ 占いや風水を意識する ?
- ¨ 自分の先祖の霊を大切にしたいと思っている ?
- ¨ お祈りやお願いごとをしたことがある?
- ¨ 幽霊・魔術・呪いといったものがあると思う?
- ¨ 天国などの死後の世界や輪廻を信じる?
- ¨ 自分はいかなる宗教も信じていない・無宗教だとおもう?
- ¨ 自分は他宗教に対して寛容か?
なかでも一番大切なのは10番目の質問。
むしろ、日本の人は生活面でも年間を通じて、とても宗教的なものに彩られている。もちろん、それは悪いことなんかじゃないし、宗教的コスモロジーをもつことはネアンダルタール人の頃から「自然な」ことだといってもいいでしょう。
また、政治を理解するためにも宗教をしっかり見ていくことは大切です。
日本の政治においても、与党、現在の自民党と政権は圧倒的に神道系 (神道政治連盟) が優勢だし、公明党は創価学会が地盤です。日本はそれほど宗教票の占める割合が多く、宗教団体が大きな政治力を持っているという事です。
それでも、なぜ日本の人は、自分は「無宗教」だ、って思ってしまうのでしょうか !?
この意識の乖離 (かいり) はいったいなんなんだろう。
どうして日本の人は、自分だけは無宗教って思うんだろう。
その意識を、パックン、こと、パトリック・ハーラン (Patrick Haran) さんが解説してくれます。っつか、パックンはハーバード大学で比較宗教学専攻でした !
パトリック・ハーラン お笑い芸人。1993年、ハーバード大学比較宗教学部卒業。同年来日。1997年、吉田眞とお笑いコンビ「パックンマックン」を結成。2012年10月より、池上彰の推薦で東京工業大学非常勤講師に就任し、コミュニケーションと国際関係について教鞭をとる。著書『世界と渡り合うためのひとり外交術』ほか多数
パックンは賢い人なので、かなり控えめな言い方をしていますが、
日本は、オウム教団の幹部7人を死刑執行したことによって、カルトと向き合う事を自ら放棄したのではないか、という点が危惧されます。
悪政が処刑を利用することはあっても、
— LoveSophia (@milanochiostro) July 7, 2018
真相の解明なくして、何事も処刑で片付く事件などありません。
かつ、日本は宗教カルトの研究が軽視され過ぎています。
多くの先進国が日本戦後初の大規模死刑執行に反対し警告しているのには、まっとうな論拠があるのです。https://t.co/vhaUhkfzA6
【パックンコラム】オウム死刑で考えた──日本の「無宗教」の真実
麻原彰晃こと松本智津夫死刑囚ら、オウム真理教の元幹部7人の死刑が7月6日に執行され、世間は久しぶりにオウムの話題で沸騰した。僕の周りでは「宗教って怖いね~」や「日本人はだいたい無宗教でよかったな~」といった声が多かった。
死刑執行の翌日に乗った飛行機の機内アナウンスで、キャビンアテンダントの声が流れてきた。「〇〇航空をご利用いただきありがとうございます。今日は七夕です。皆様が短冊にお書きになったお願いが叶いますように、乗務員一同、お祈り申し上げます」。
興味深い。
機内を見回すと誰も不思議そうな顔はしていない。「色紙に記し、笹から吊るしたお願い事が、乗務員の祈祷力で成就するかもしれない」という意味に取られてもおかしくないこの一節を、無宗教の人は何の違和感もなく聞き入れるのかな。そういう疑問が頭の中に浮かんだ。もちろん、社交辞令として聞き流している可能性はある(もちろん、乗務員は本気で祈っていると思うけど)。でも、こんな言葉に見え隠れする異次元の力を、どこかで信じている部分もあるのではないかと思い始めた。
日本人はお守りを捨てられないし、鳥居をくぐるときは頭を下げる。具体的なメカニズムが分からなくても「罰当たり」は、ほぼ全国民がなんとなく信じているのではないだろうか。
批判ではない。僕も毎年初詣をするし、お線香をたいて亡くなった親戚に手を合わせる。20年前にもらっただるまも、なぜか処分できない。鍵や携帯電話が見つからないときは必死に神様に祈る。しかも、どれも無神論者と自称しながら。
僕だって言っていることとやっていることが違う。認めよう。
では、日本の皆さんは本当はどこまで無宗教なのか。NHKが5年おきに行っている「日本人の意識」調査のデータを見ると驚きの実態が浮き彫りになる。神を信じる日本人は3割以上いる。仏だと4割を超える。約6人に1人が奇跡を、ほぼ同じ割合でお守りの力を、さらに7人に1人以上があの世・来世を信じる。逆に「宗教や信仰に関係していると思われることは何も信じていない」と答えたのは25%にとどまる。どうやら、大半の国民になんらかの信仰心はあるようだ。
行動を見るともっと驚く。7割以上の人がするというお墓参りをはじめ、合格祈願をしたり、おみくじを引いたりなどの「宗教や信仰に関係していると思われること」を行っている人が圧倒的に多い。何もしていないというのはたったの7.5%だけ。つまり、「宗教っぽい何か」を信じている人が75%、やっている人が92.5%もいるということだ。個人的には、少なくとも2割近くは存在するはずの「信じていないのに宗教っぽい何かをやっている」人も気になるけど、とにかく、データから見えてくる日本人は無宗教と言いづらいのだ。
批判ではない。僕だって超自然の力を信じる。僕の好きなヤクルトスワローズも優勝できたし、相方のマックンも結婚できた。奇跡以外で説明がつかない。僕も日本の皆さんも「無宗教」と名乗らないほうがいいのかもしれない。
アメリカ人から見れば、日本の宗教色は確かに薄い。およそ半分のアメリカ人が教会に通う。信仰心が強く、普段から布教活動をしている人も多い。キリスト教専門のラジオ局もテレビ番組もある。日頃から十字架のジュエリーを身に着けている人をよく見る。その1人があの有名なポップス歌手。十字架を着けるだけではなく、マリア様の別称を名乗って活動しているのに、半分冒涜的な内容の曲で有名なあの人。それでも、皮肉なことにキリスト教徒にもマドンナファンは多い。
生活レベルの話だけではない。政教分離をうたいながら、アメリカ政府関連のものにも宗教の要素が浸透している。公立の小学校で学生が毎朝唱える Pledge of Allegiance(忠誠の誓い)の中には One nation,under God (神様の下の一つ国)とあるし、大統領は就任式で、裁判で証言者は聖書に手を載せて誓う。また、ドル札には In God We Trust(われわれは神様を信用している)と書いてある。逆に、発行元の連邦準備銀行を信用していないのかと、ちょっと不安になるくらいだ。
そんなわが国に比べると、確かに日本は「無宗教」に感じる。でも、「無」ではない。上記の調査からも分かるように、何らかの信仰を持ったり、宗教っぽい行動を取ったりしている人がほとんど。占いや風水なども人気だ。さらに、宗教的なイベントも目立つ。盆踊りを踊ったり、お神輿を担いだり、神社仏閣でお祭りを楽しむことは毎年の風物詩。有名な話だが、日本人は生まれるときは神社、死ぬときはお寺、さらに近代だと結婚するときは教会にお世話になると、人生の節目にも宗教が必ず絡んでくる。
それだけを見ると日本は「有宗教」な国だ。でも他方で、毎週お説法を聞きにいったり、毎日お祈りをしたりする人は少ない。布教活動をする人とはめったに出会わないし、神様の思し召しに合わせて仕事や結婚相手を選んだり、人生のいろいろを決めたりする人もほとんどいない。
また、何かの信仰をもって、他宗教に対して排他的な考えや行動を取る人も見ない。現代の日本人が持つ宗教概念の下で戦争を起こしたり、他人を虐げたりすることもまずなさそう。結局は楽しい儀式を残しつつ、宗教のマイナス面を省けている。ほどよい塩梅の宗教観だと、僕はいつも感心している。
では、これをどう表現すればいいのか。無宗教はとりあえずやめてみよう。外国に比べると熱度が低いから「薄宗教」や「弱宗教」と言えるかもしれない。もしくは、都合のいいときにだけ利用しているから「コンビニエンス宗教」も考えられる。
宗教から得られるものもたくさんある
正直、言い方はなんでもいい。とにかく自分のことを考えるとき、宗教と無関係だと思ってほしくないのだ。それが、オウム真理教事件から教わるべき教訓の一つ。多くの人は「われわれは無宗教だ」という見方から、オウムの教えや信仰をあざ笑い、「バカバカしすぎる」と軽く片付けているようだ。しかし、これは危険な思い込みだと思う。「あいつらと違って、われわれのは形だけの宗教だ」とか、「健全な信仰だ」と、安心するのは少し甘いかもしれない。
ほとんどの人は最初から宗教的な何かを信じている。「信じる心」を持っている。教育大国、技術先進国の国民であっても、思っているほど危ない宗教の魅惑・誘惑に免疫ができているわけではない。
アイデンティティー、コミュニティー、存在意義などなど、宗教から得られるものはたくさんある。社会との不一致を感じたり、孤独感に駆られたり、生き甲斐を見失ったり、何かを求めたりする人にとって宗教の魅力はあらがいがたい。無宗教と名乗りながらも、最初から超自然的なものを信じている人が多い。
困ったときに、自身の要求に答えるものが多少非現実的であっても、少し非常識であっても、理性に反しても、それについていくのは想定外の話ではないはず。その可能性を想定内にしないといけない。
次のオウムが生まれないようにするには、政府や社会が1人1人へのケアを充実させるのも大事だ。同時に、「無宗教」に隠れている宗教観と心理を分析し、理解し、周知する必要もあると思う。それを把握した上でないとカルト教団への本質的な対策はできない気がする。
でも逆に、その理解を踏まえれば、超自然的な力を借りずに個々の精神的な、社会的な要求に応じる「何か」が生まれるかもしれないと僕は......信じる。というか、生まれると祈っている! この間、短冊にもそう書いた。
オウム真理教は、エリート学生の信者を多数獲得し、政治力を得て、実は海外でもその信者を伸ばしていました。テレビに出演したり、日本でも各大学の学園祭で講演会を開き、ビジネスも展開。京都でも、パソコンショップやラーメン店を展開していました。
丸太町にあったラーメン店はパソコンショップやスーパーとセットになっていました。
つまり、実は人々の暮らしのそばに身近にあり、日本に今も多く活動するカルト系新興宗教の一つだったわけです。
なぜ人々はカルトに吸い寄せられていくのか、
そしてなぜカルトは政治と結びついていくのか、
地下鉄サリン事件の1995年から、20年以上もたって、今やカルト宗教は、かつてと違う方向性に繁栄空間を得たように思う。
スピリチュアル系で学生を呼び込み、極右政治運動や歴史修正主義を吹き込んでいく宗教団体。この宗教団体は、パールハーバーの奇襲からあの太平洋戦争を展開した日本は、途方もない人々の命と尊厳を奪い、殺戮と暴力と破壊を重ねていったのではなく、なんと「世界から人種差別を撤廃した」と。「すばらしい誇るべき戦争」という突拍子もない考えを学生にふきこみ、明るいファッショなデモをしていきます。いつ、あの戦争が「世界から人種差別を撤廃した」のでしょうか。
つまり、オウムという教団を解明することは、今の日本の右傾化を解明するうえでも、とても重要なことだった、にもかかわらず、なぜ処刑という形で終止符を打とうとしたのでしょう。
身近なカルトに気をつけよう!
カルトは大学で青田刈りします。
怪しい勧誘にも気をつけて。カルトだと気がついたら、もう人間関係でなあなあで抜けにくいとか、まーったく、気にする必要ないです。
もう、すぐに大学に連絡してね。
すぐ相談してね !!!